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続リヨン風信(六)「極彩色の魔法」
アランと私は、グザビエを誘ってモスリン祭に出かけた。六月だというのに気温は三十度を超え、歩くだけで肌がじっとりと汗ばむ。タラール市内はもちろん、近隣の村々からも人が集まっているようで、いつもは人気のない日曜日のタラールに群衆がどっと溢れている。こんなにもたくさんのフランス人が集まっているところに、私は今まで出くわしたことがない。どの顔も晴れやかで、何か素敵なことが始まりそうな予感がむんむんと熱気の中に漂っている。私たちは木陰に入り、パレードを眺めることにした。 初めに現れたのは、色鮮やかな衣装を身にまとったマダム。レモン色のモスリンで彩られた山車に乗り、ラベンダーのサシェ(ポプリの入った小袋)を気前よく放り投げている。運よくそれをキャッチしたアランは、私の手にサシェを乗せてくれた。鼻を近づけると新鮮な野生の香りがした。 「これってそれぞれフランスの各地域を象徴しているんじゃないかな」とグザビエが言う。 「ああ、本当だ。今のは南仏で、次に来るのはリヨンだ」とアラン。 次の山車が現れた。二人の言う通り、リヨンを象徴するアイテムがふんだんに盛り付けられている。ポールボキューズのレストランの写真を背に、コック帽とエプロンを身に着けたムシューがにこやかに手を振っている。観光名所であるフルヴィエール大聖堂の模型も、誇らしげに輝いている。 広場にもすでに人々が押し寄せていた。太陽のひかりは午後になっても衰えず、いよいよ勢いを増し、躰中の水分を搾り取るように照りつける。それでもパレードは終わらない。むしろ熱気に押されるように、ますます力強く行進を続けている。 「すごいな。こんなに盛大なフェスティバルだとは思わなかった」グザビエは放心したように言う。 「実は僕も初めて参加したんだ。これぞフランスの真髄って感じだな」とアラン。 「なんだか魔法みたいね。色んな嫌なことが洗い流されていくみたい」と私も言った。 極彩色の天幕のように街中を飾るモスリンと、汗に濡れて輝く人々の顔と、楽隊の奏でる激しく明るいメロディー。これがフランスなんだ、となぜかその時私は強く思った。これが真のフランスの姿なんだと。 神道の禊の儀式のように、穢れを落とす行為は、おそらくどの国のどの文化にも存在するだろうと思う。この国では陽気な白魔術のようにそれが行われるのだ。 その日の晩のうちに帰る予定だったグザビエも、結局一泊することになった。夜になってもフェスティバルは終わらず、教会の広場からは相変わらず太鼓の音が聞こえてくる。空は藍色で、広場の時計は深夜一時半を指している。人々は眠ることを忘れたようにそこらをぶらついている。 オレンジ色の街灯を浴びて、街角でブラスバンドが演奏をしていた。その周りを数人の観客が取り囲んでいる。サクソフォンの音が胸をびしびし貫く。快楽という石礫を躰中に浴びているようだ。音符の一つ一つが私をたたきつけ、その場に釘付けにする。と、そこにひとりの若い男性が飛び込んできた。背の高いすらりとした体躯の人だった。彼はごく自然に音楽に身を任せて踊り、手を打ち鳴らし、次の瞬間にはひらりと身をかわしてどこかへ消えてしまった。 「なに、今の」私はちょっとびっくりして言った。 「まあみんな酔っぱらってるからね。この国ではそんなにめずらしいことじゃないよ」とアラン。 「そうそう、僕らはラテン民族だからね。音楽が鳴ったら踊るのさ」グザビエも同意する。 「イサドラ・ダンカンじゃあるまいし」と私。けれど彼らの血の中に流れているリズムを、少しうらやましく思った。 夏の夜の魔法は街を包み、人々を静かに癒すだろう。月のひかりが闇を照らし、淡い膜のようにこの国を守っている。どんな悪も、罪も、侵入できないように。 ![]() 続リヨン風信(五)「モスリンと夏のひかり」 フランスの行政機関は驚くほど非効率的で時間がかかるのだが、フランス人自身にとっても煩わしいものらしい。「気の触れる家 (Maison qui rend fou)」という異名があるぐらいだ。前回ビザの更新をしに県庁に赴いた際は、朝七時から列に並び、手続きを終えて帰るころにはすっかり日が暮れていた。しかしコロナ以降デジタル化がずいぶん進んだようで、今回は比較的スムーズに事が運んだ。一時間ほど待ったところで順番が来て、必要書類を担当者に提示すると、すぐに新しい滞在許可証を受け取ることが出来た。 「これで胸を張ってフランスにいられるわ」建物を出ると、せいせいした心持で私は言った。 「よかったな」とアランも嬉しそうに言ってくれた。 私は受け取ったばかりの滞在許可証を改めて眺めた。 それは運転免許証ぐらいのサイズのプラスチックのカードで、顔写真と住所などが記されている。この国での私の存在証明はこのカード一枚にかかっているのだ。フランス人と結婚していようが、フランスに七年住んでいようが、そんなことはこの国の人々には分からない。彼らの目に映るのは、ただのひとりのアジア人だ。私はやはり異邦人にしか過ぎない。だからこそ「私はここにいます」と叫び続けなければならないのだ。無数の書類で武装しながら。 昼近くになり、カフェに寄って休憩し、またタラールへとんぼ返りした。家に帰るなりシャワーを浴び、ずぶずぶと昼寝した。しかし私にはまだするべきことが残っていた。自動車学校に行かなければならない。気が重かったが、思い切って外に出た。陽射しが肌を焦がす。 受付のジャンはにこやかに出迎えてくれたが、少し驚いた様子でもあった。というのは、私は数日前に寄ったばかりだったからだ。 「あれ、今日は運転の日じゃないよね?」とジャン。 「ええ、でもちょっとお話ししたいことがあって」と私。 教習を受けてから二か月ほど経つが、実は苦手な教官がいる。四十代ぐらいの気さくな男性で、決して悪い人ではないのだが、やや態度が荒い。自慢じゃないが、ただでさえ下手くそな運転中に大声を挙げて注意されると、泣きそうになる。もうやめてしまおうかという気になる。けれどそれは私の脆弱な精神の問題であり、大人なのだから我慢しなければならないと思っていた。しかしそのことを夫に打ち明けると、「今すぐ教官を替えてもらった方がいい」と言う。けれどそれは子どもっぽい言動だと受け取られないだろうか。先方の都合もあるだろうし、私のわがままで面倒をかけるなんてとんでもないことではないか。けれどさんざん迷った末、相談だけでもしてみようと思った。その暑い日、私が自動車学校に寄ったのはそういうわけだった。 事情を話すとジャンはすべてを察し、速やかに対応してくれた。 「大事なのは、君にとってスムーズに物事が運ぶことだよ。僕たちはそのためにいるんだから」と彼は笑顔を見せた。変更手続きにはものの五分もかからなかった。そのことについて頭痛がするほど思い悩んでいた数日間が嘘みたいだった。私はなんだか狐につままれたような気持ちで、よろよろと家に戻った。 事の顛末をアランに話すと「ほらね」と彼はしたり顔で言った。 「自分の意見を大切にすること、それを正直に伝えること、物事がうまくいかないのなら素直に認めて改善策を探すこと。それのどこが子どもっぽいの?この国では普通のことだよ」と。 言われて見ると確かにその通りだった。ああ、フランスにいるってこういうことなんだ、とその時私は思った。 窓を開けると、めまいがしそうなほど強い陽射しが通りを照らしていた。空は白くひかって、夏の到来を喜んでいるみたいだった。風にはためく色とりどりのモスリンが、そっと抱きしめてくれたような気がした。 続リヨン風信(四)「花の嵐」 ![]() フランスの春は強引にやってくる。鎧戸を揺さぶり、窓から極彩色のひかりが侵入する。鳥たちはオペラ歌手のように高らかに鳴く。日本のような桜色の淡い春ではない。 外に出れば、通りにひかりがたっぷりと降り注ぎ、景色が白く見える。その非現実的なほど強い輝きの中で、街ゆく人々のシルエットが映画の一場面のように見えてくる。彼らは春の陽気の中を幻のように通り過ぎる。わたしは杖を失ったひとのように、おぼつかない足取りで歩く。陽炎に包まれているみたいに遠近感がうまく掴めない。 最近、フランス政府から新規の滞在許可証が下りた。申請から約一年半。長い道のりだった。 インターネット上で申請を行ったのが二〇二三年の十月。数ヶ月後に「仮滞在許可証」という一枚の紙が届いた。本来ならその後「滞在許可証」という、運転免許証ほどの大きさのカードが発行されるはずなのだが、待てど暮らせど連絡がない。書類に不備があった訳でもなく、メールで問い合わせても「お待ち下さい」の一点張り。それからさらに一年の時が流れた。 何かがおかしい。これまでビザの更新を二度行ったが、コロナ禍でさえ半年以内で片がついたのだ。なぜ今回に限ってこうなのだろう。フランス政府は外国人を受け入れたがらないのだろうか。フランス人と結婚しているといえど、私はあくまで異邦人である。何かしらの理由で体よく追い返されるのではないか。私は被害者じみた考えを抱くようになった。そんな私に、アランはこう言った。 「ねえ、考えてみて。凶悪犯罪を犯すような不法侵入の移民がこの国にはゴロゴロしているんだ。フランス人の夫がいて、かつ真面目に法を守っている君が追い出されるはずないだろう」 「それもそうね」と口では言ったものの、心の底では確信が持てなかった。 「まさか君は『フランスにいる権利がない』なんて思っている訳じゃないよね?」 私の考えを見透かしたように彼は言った。 「『フランスにいてごめんなさい。あなた達と同じ空気を吸ってごめんなさい。この地球上に存在していてごめんなさい』。これが君の魂が告げているメッセージだろう。違う?」 「そんな大げさな。そこまで考えてないわよ」 「その割には君のメールには『すみません』という言葉が三度も出てきているね」と、彼は私が先方に宛てて書いたメールの下書きを見ながら言った。自分では気が付かなかったが、改めて読み返すと以下のような言葉が並んでいた。 お忙しい中申し訳ありません、お手数おかけして申し訳ありません、度重なる問い合わせになり申し訳ございません、等々。日本で当たり前に使っていたこれらの言葉をフランス語に直すと、なぜかとても違和感があった。 アランはため息をついて言った。 「日本では謙虚さは美徳かもしれないけれど、この国では『卑屈』と受け取られる。足元を見られたら終りさ。いざとなったら怒鳴り込みに行くぐらいの気構えでいないと」 うんざりするほど複雑な手続きと気の遠くなるような時間の中、高慢で冷淡な担当者とバトルを繰り広げる。フランスの行政手続きとはそういうものだと、アランが教えてくれた。 「自分の欲しいものを絶対に手に入れる。そのためには最後まで闘う。君にはその覚悟がある?」 「ううん。正直言って、心が折れそう」 「フランスにようこそ」 後日アランに手伝ってもらい、改めて県庁にメールで問い合わせたところ、数日後「滞在許可証が発行された」との連絡が来た。それはまるで魔法のような出来事だった。一体どうなっているのだろう。 「メールの文章をちょっと変えただけさ。『緊急事態なのでこれ以上待てない。一年半も待つのはちょっと異常だと思う。何か問題があるのなら教えてほしい』ということを書いたんだ。もちろん丁寧な言葉でね」 彼はさらりと言った。そしてこう付け加えた。 「僕も日本に十年住んでいたからわかるけど、日本人は親切で丁寧で仕事が速い。でも同じことをフランスに期待したら駄目だよ。この国では理不尽なことが多すぎる。怒りをパワーにして進むしかないんだ」 「それって疲れない?」半ばげんなりして私は尋ねた。 「大人になるってそういうことだよ。今まで習い覚えたことを忘れて、自分の欲しいものを掴み取るんだ」 そういうものだろうか、と私は思った。
折しも夫と私は自動車学校に通い始めた。一般的に言って、免許を取得するような年齢は二人ともとうに過ぎている。しかし物事にはタイミングというものがある。私たちにとっては、今がその時期なのだろう。私は今、この国でようやく大人になろうとしているのかもしれない。 気が付けば方々で桃色の花が咲いている。日本の八重桜に似ているように思うが、なんという名前かわからない。風がごうと吹き、花びらを遠くまで飛ばす。むせかえるような花の嵐の中で、私は少し微笑んだ。 ![]()
続リヨン風信(三)「窓辺のカサンドラ」 ![]() ![]() 窓辺から蜜のようなひかりが射し込んでいる。世界は明るく、美しく、素敵なことで満ちているように見える。ところが一歩外に出ると風は身を切るように冷たい。指がかじかみ、耳がひりひりする。春はまるで曖昧な約束のように、どこか遠い場所にあるようだ。 最近、フランスではマクロン大統領夫妻に関するスキャンダルで持ち切りである。日頃政治に関心のない私だが、この件には心を動かされるものがあり、調べてみることにした。すると奇妙な事実が次々と浮上してきた。ひとつの謎がまた次の謎を呼び、その謎がまた最初の謎に戻り…といった具合である。だんだんエッシャーのだまし絵を見ているような気分になってくる。まだ公式には公開されていない情報なので、誰かに話したところで理解してもらえないのが歯がゆい。 「真実を語る者は、いつも受け入れられないんだよ。カサンドラのようにね」とアランが言った。 「ああ、あのギリシャ神話の?」と私。 「そうそう。カサンドラは未来を知る力を与えられながらも、太陽神アポロンによる呪い のせいで誰からも信じてもらえなかった。いつの世でも真実というのは煙たがられる’ ものさ」 そんなものだろうか、と私は思った。 ある日、義妹の家族の家にお邪魔することになった。彼らは農業を営んでおり、広大な敷地にはあらゆる種類の果樹が植えられている。鶏小屋に山羊小屋、チーズを製造する作業場まである。入口にいる美しい二羽の孔雀に見とれていると、大きな毛むくじゃらの犬がやってきて挨拶してくれた。室内にはさらに小犬が一匹、猫が三匹いる。まさに動物王国といった趣だ。 「さあ、座って。これからお菓子を作るところなの」とアランの妹のアンヌ。 彼女はなめらかな手で生地をこね始めた。四人の子どもを持つ母親だというのに、みずみずしい美しさはまったく失われていない。しばらくして彼女の夫のヴィクトルが仕事から帰ってきた。岩のようにどっしりした体躯で、冗談を言うのが好きな陽気な男性だ。 すると子どもたちがやってきて出迎えてくれた。長女のシャルロットは大学生。栗色の髪の毛をした、仔猫のように可愛らしい女の子だ。次女のイリスは高校生。すらりと背が高くきれいなブロンドの髪をしていて、いつも静かに微笑んでいる。三男のルイは十二歳で、眼鏡をかけた色白で華奢な男の子。そして末っ子のトムは十歳。賢そうな大きな栗色の瞳が印象的な男の子だ。 シャルロットとイリスは最近運転免許の学科試験を受け、見事合格したという。 「思ったより簡単だった。今は技能試験に備えて練習中なの」とシャルロット。 「へえ。今まで誰も轢かなかった?」とアランが茶々を入れる。 「失礼ね。当然でしょ」 そのような話をしていると、トムが突然「絵を描きたい」と言い出した。それは子どもの駄々という感じではなく、ほとんどベテランの画伯のような、静かな気迫に満ちた様子だった。まるで彼の体内に埋め込まれた時計が時間を告げるみたいに、ほとんど毎日同じ時間に絵を描くのだとアンヌが教えてくれた。 アマチュアのイラストレーターであるアランは、甥の芸術的素質の芽生えを喜んでいるようだ。小さなキャンバスに向かい黙々と絵を描くトムに、絵具の使い方をアドバイスしている。 イリスとルイはそれぞれ自分の部屋に行ってしまった。みんな少しずつ自分の世界を形成していく年頃なのだ。 そうこうするうちに夕飯の時間になった。アランのレシピを元に、みんなで協力して大きなハンバーガーを作った。たっぷりのレタスにトマト、ピクルス、分厚いパティの入った巨大なハンバーガーだ。小さな子どもの頭ほどの大きさはあるだろうか。子どもたちは食べきれるだろうかと心配になったが、みんなぺろりと平らげていた。 夜の九時半を回り、そろそろお暇することになった。アンヌが車で送ってくれるという。アランと私はほんの少しの眠気と、子どもたちが残してくれた星のような明るい余韻を感じながら車に乗り込んだ。 「子どもっておもしろいものだな。賑やかで、楽しくて」とアラン。 「でもね、四人も子どもがいると大変よ。いつも誰かが何かの問題を起こすし。こっちは頭がおかしくなりそう。もちろん、どの子もみんな可愛くて大好きだけど」とアンヌ。 沈黙が下りた。一瞬、闇が肌を切り裂きそうなくらいに濃くなった。しばらく誰も口を開かなかった。 「じゃあまたね」と明るく言った彼女はやはりいつものアンヌだった。きりりと冷えた夜の中に、颯爽と車を滑らせて去っていった。 その晩、私はふたたび例の調査に戻った。私は闇というものに魅了されつつあった。薄っぺらいひかりの照らす世界にも影がある。大統領夫妻のいるエリゼ宮にも、あかあかと灯のともる家庭にも。もしかしたら私たちの誰もが窓辺でため息をつくカサンドラなのかもしれない。
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